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執筆者の写真物性理論

嘘か真か

こんな作り話を考えてみた。ネス湖にネッシーがいるかどうか、を信じるか信じないかは個人の自由だと思う。しかし、本当かどうか、はそこまで自由ではないはずだ。科学的な調査が必要だ。そして調査隊が作られて、徹底的に調査した結果、ネッシーはいない、と結論付けたとする。データを公表し論文が出版されたとする。こうした結果は、新聞やテレビで報道される可能性があるだろう。だれだれが調べた結果、論文として出版されていることが大きいのだと思う。しかしこれを信じない人がいたとしよう。信じないのはその人の自由だ。そして反論を試みる。そのタイプを2つに分けてみる。


タイプA:この結果は不十分であり、更なる調査をしないと結論できない、と主張する。この主張は、いるともいないともまだ結論できない、という主張だ。職場で議論していると、やっと方向性が見えてきたときに、いやいや、と言い出す面倒な人、いると思う。


タイプB:実は、調査の結果、ネッシーがいることが判明した。しかし、そのことを公表すると大勢の人が訪れ環境が壊されネッシーの生命にかかわる。そのため、敢えて、いない、と結論付けたのだ、と主張する。そもそも今は作り話だから嘘も本当もないのだが、この手の嘘は簡単に作れる。更に、調査員の一人から事情を聞いたところ、なんて一文が入るとさらに本当っぽくなる。


さて、タイプBの意見は新聞やテレビで報道できるだろうか?バラエティ番組ならあり得るだろう。地球に宇宙人はいる、と堂々と主張している人たちもいるし(本当にいるかもしれないけど)。でも、通常のニュース番組では難しいだろう。ではネットニュースではどうだろうか。多分、それも難しい気がする。では、個人のSNSではどうだろうか?これは問題ない気がする。この意見Bによって傷つく人はいないし。


マスメディアで報道される情報と、個人のSNSから発信された情報のどちらを信じるかは個人の自由である。しかし、どちらが正しいのかは、きちんと検証しないと、自分が正しいと思った情報が正しい、というあまり科学的でない命題を真だと思い込むことになってしまう。人間はひょっとしたら、少数派の意見の方に、自分だけが真実を知っている、と考え優越感を覚える生き物なのかもしれない。真実かどうか、と多数派か少数派か、は独立な問題のはずだ。個人的には、実は…で始まる少数意見はとりあえず疑ってみることにしている。これは個人の自由だから。


翻って、理論物理は数学というゆるぎない言語によって表現されているので、嘘か真実かを心配する必要がなくて気楽だ。数学は嘘をつかないし、嘘をつけば数学によって暴かれる。相対性理論は間違いだ!なぜなら人間の直観に反しているからだ!という意見は、言うのは勝手だが、的外れであることは数学が証明してくれる。虚実の狭間を巧みについているのがパラドックスだが、その真偽も数学によってきっちり証明されるのであって、それっぽい答、に説得力はない。平和。




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